こんにちは。てんすけです。
スタジオジブリ作品
そして、宮崎駿監督最新作「君たちはどう生きるか」が公開されました。
公開まで一切のプロモーションを禁止したという異例の作品。
今回の記事では、ネタバレ全開で語っていきたいと思います。
宮崎駿監督と同世代の富野由悠季監督。彼が生み出したガンダムシリーズの1ファン、また過去から現在までずっとアニメ好きであるという視点から感想を書いていきます。
ここから先はネタバレあります
3つの君たちはどう生きるか
はじめに、今作は3つの対象に向けて「どう生きるか。」という命題を投げかけていると私は解釈しました。
その3つの対象に沿って感想を述べます。
眞人の成長譚として
1つ目の対象は、令和に生きる子供たち。
本作のストーリーを一言で表すなら冒険活劇ファンタジー。
冒頭は戦争(おそらく第2次世界対戦)による空襲のシーンから今作は始まる。
今作の場合は、「火垂るの墓」とは違い、眞人が母を失う場面を象徴的にファンタジーチックに描いているのが特徴。
物語のテーマが眞人の成長にあるということがここで示される。
眞人の成長に関わってくるのは、塔の中の世界=『下の世界』での出会いだ。
アオサギとの間には友情。
キリコとの間には大人への信頼。
そして、ヒミとの間には親子の絆の再確認。
これらの経験があったからこそ、最後に大叔父と対面した時、眞人は『下の世界』の支配者となるのではなく、元の世界に戻り自身の人生を生きるという選択をとったのだ。
今作は冒険活劇として、ジブリの歴代作品をオマージュしている部分が多く、眞人の成長譚として楽しむことができると思った。
天井の梁をつたって移動するのは、「千と千尋の神隠し」っぽいなと思いました。他に気づいたことあれば知りたいです。
その眞人の選択を通して、令和を生きる子供たちに対して、「世の中は誰かに従うだけでは生きていけない『君たちはどう生きるか。』」と、作り手は問いかけているのではないか。
家族再生の物語として
2つ目の対象は、令和に生きる子供を育てる・育てようとする大人。
眞人が塔の向こうの世界=『下の世界』を冒険するきっかけとなったのは、新しい母となるナツコの失踪。
彼女と再会することが、彼の冒険の動機である。
しかし、中盤に眞人はそんなナツコに拒絶を言い渡される。
つまり、ここで眞人は「なんのためにナツコを助けたいのか」という命題と直面するわけである。
ナツコは、眞人が怪我をした際に寄り添って看病してはいたものの、自身の状態もあるが父である正一ほどは感情的になることはなかった。
また、眞人は終始彼女のことを母と呼ぶことはなかった。
これらのことから、2人共が親子になることに納得がいっていないのではないかと想像することができるのだ。
つまり、父である正一だけの思いで2人は家族にさせられそうになっているということ。
自身の思いを尊重されない『上の世界』を捨てて、自主的に『下の世界』に降りたナツコ。
そんな彼女の思いに眞人が気づくのは、実母であるヒミと別れる瞬間である。
「私は眞人のお母さんになる。」
この言葉の通り、誰かの肉親になるのに必要なのは血縁でも、資格でもない。
本人の意思なのである。
『上の世界』に戻った後、眞人も、ナツコもそれぞれが「家族になりたい」という意思をもつまで関わり合うことの方が大切なのである。
だからこそ、眞人は悪意をもたない『下の世界』の支配者になるわけにはいかない。
家族になる意思をもつに至るには、絶対に善意ではなく、悪意による衝突も存在する。
ここが今作が子育てをする世代に問いかけている『君たちはどう生きるか』である。
そういった悪意をはらむ過程から逃げない意思を、上述した通り成長した眞人はもった。
今作のラストは、ナツコが呼びかけて眞人が答えるシーン。
このシーンを見ると、2年の月日を経て2人がどういう関わりを行ってきたのか想像できるのではないだろうか。
非常にテーマに沿ったきれいなラストだったと感じました
が、しかし……
この描き方自体に私はあんまり納得がいかないんです!!!!
冒頭で述べた通り、宮崎駿監督と肩を並べるアニメ監督といえば富野由悠季監督。
彼らは手塚治虫の虫プロ時代から共にやってきた戦友にして、ライバル。
今では2人とも文化功労賞を受賞するレベルのアニメ界のレジェンドだ。
そんな富野由悠季監督の生み出した最も有名なアニメ。
「機動戦士ガンダム」
ガンダムシリーズのテーマは、次の記事でも述べている通り「人と人とが分かり合うこと」
富野由悠季監督が自ら作った宇宙世紀シリーズでは、これを人類がニュータイプとなることで分かり合うことができるのではないかと描いている。
ニュータイプとは隣人=家族を大切にする力をもった人類。
ただし、ガンダムシリーズにおいてはこの家族というものを、父親がいて母親がいて子供がいてという形に定めて描いていないのが、宮崎駿と富野由悠季の思想の違いが現れている点でもある。
1作目の「ファーストガンダム」のラストにおいて、アムロ・レイはホワイトベースの仲間たちへ帰還する。
アムロ・レイは戦争の中で、実の家族を失い、家族になれるかもしれなかった女性も失っている。
そんな彼が帰る場所が、戦争を共に生き抜いた共同体であるホワイトベース隊。
まさに擬似的な家族の演出として、これ以上ないものだ。
つまり、富野由悠季監督は、家族とは心のつながりがあるものを指し、そこにジェンダーやトラディショナルなしきたりは必要ないと1作めから主張しているのである。
その後、ガンダムシリーズは最新作「水星の魔女」まで作られているが、すべての作品において、家族の形を「君たちはどう生きるか」で描いた形では描いていない。
水星の魔女がわかりやすく令和の家族を描いてますよね。
ガンダムファンである私は、これにならって家族とは別に父親、母親を定義する必要はないのではないかと考えるのだ。
だから、この2つ目の『君たちはどう生きるか』に対しては
家族の形って多様でよくない???
と、若干喧嘩腰で答えてしまう。
メタ視点として
最後3つ目の対象が、これからの日本アニメを担う人たち。
これが1番賛否両論出るのではないだろうか。
いわゆるメタ視点での話。
まず、塔の修復をした大叔父。
これが監督である宮崎駿自身であろう。
外界から飛来したものに惚れ込み塔を作り引きこもった。
もっというなら、アニメスタジオのスタジオ・ゼロである。
手塚治虫とは、マンガの表現を変えた偉人。
具体的に、マンガに映画的手法を取り入れた第1人者なのである。
そんな手塚治虫をきっかけに、マンガ、アニメは大きな飛躍を遂げた。
と、同時にマンガやアニメが一大産業となったのである。
そこに芸術家として取り憑かれたのが、宮崎駿をはじめとした、当時はそんなくくりなどなかったかもしれないが「アニメ監督」たちだったのだ。
では、大叔父が支える『下の世界』とはどんな世界か。
もちろん日本のアニメ業界だろう。
この世界の支配層たるセキセイインコは、最大手であるスタジオジブリの人々。
渡り鳥であるペリカンは、若き才能のアニメーターの卵=わらわらを捕食する姿から、オリジナルの作品を出せぬままアニメ業界に今なおいる監督たち。
それぞれメタファーであると私は読み取った。
老ペリカンは
海には、もう魚はなく、わらわらを食べるしかない。
と、眞人に語っていた。
海を市場、魚を興行収入、わらわらは若いアニメーターと言い換えると、まさに日本を取り巻くアニメや映画界の現状を表しているといえる。
現在、アニメや映画はサブスクリプションの影響で手軽なものとなったことから、大作の続編しか興行収入を見込めないものとなっている。
老ペリカンはさしずめ、経験を積んだが1つもオリジナル作を作らせてもらえなかった関係者のメタファーなのではないだろうか。
さて、大叔父=宮崎駿が支えてきた日本のアニメ業界。
その後継者に指名された眞人は誰を指すのだろうか。
これはいろんな人の思いを聞きたい。
私は、ずばり庵野秀明監督ではないかと考える。
眞人は、大叔父とは自らと血縁関係があることからも。
また、庵野監督は自身では否定しているが、誰もが宮崎駿監督の後継者たるにふさわしい実力はもっている。
では、ここで眞人の悪意の象徴である頭の怪我は、庵野監督において何を指すのだろうか。
おそらく今もなお庵野監督のライフワークとなりつつあるシン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバースではないかと私は考える。
ここで描かれる作品群の原作者はすべて宮崎駿と同世代のクリエイター。
それを庵野監督は独自の解釈で描いている。
それってめっちゃ楽しいですよね。
この行為は、絶対に悪意はないだろうが、他者からはそう取られても仕方ないと思われるものではないか。
だから、眞人=庵野秀明は、『下の世界』=日本アニメ界を支える任を降りた。
自分は作りたいものを作る。
エヴァンゲリオンではなく。
このように私は、メタ的な視点を解釈した。
個人的には、もう一度見て、富野由悠季監督もどこかに描かれていないか細かく探したい。
おわりに
いやー!!!これほど語りたくなる作品ないですよ。
私はあまりジブリに思い入れがない方なので、わりとフラットに見れましたが、ファンの方はどう思ったのでしょうか?
めちゃくちゃ聞ききたいです。
そして、最後に大切なこと。
今作はいかようにも解釈ができるよう、ものすごく観念的な作品となっています。
だから、正解の解釈などないです。
ぜひぜひ、みなさんの『どう生きるか』考えを聞きたいです。