こんにちは。てんすけです。
新海誠監督最新作「すずめの戸締まり」公開されました。
私は「君の名は。」を見てからずっと監督の映画に魅了されてきました。
新海誠ファンです!
さて、今回の記事では最新作「すずめの戸締まり」についてネタバレあり感想を書いていきます。
タイトルにも書きましたが、私はもう監督のファンをやめます。
なぜこう思ったかの理由も書いていきたいと思います。
ここからは「すずめの戸締まり」「天気の子」「君の名は。」「秒速5センチメートル」のネタバレを含みます。
ネタバレ感想
私がファンを辞めようと思った理由
私が監督の作品に魅了されたのは「君の名は。」が初めて。それ以前にも「言の葉の庭」など作品は見ていたが、大好きになったのはこれがきっかけ。
それ以降は「天気の子」にも衝撃を受け、新海誠の作家性に惚れてしまった。
そんな私が「すずめの戸締まり」を見た感想は
新海誠ファンを辞めよう。
だった。
なぜ、そう思ったか。
それは今後、新海監督は私の好きなタイプの映画を作ることがないだろうことが分かったからである。
私が好きだった新海誠の作家性
今回の「すずめの戸締まり」
入場特典の冊子にもあるように「君の名は。」→「天気の子」と3部作のように制作されていたとのこと。
私が好きだった新海監督の作家性は「秒速5センチメートル」のようなエモさ。
具体的に言うと、二度と取り戻すことのできないものへの慟哭である。
「秒速5センチメートル」の主人公である遠野貴樹は第一章「桜花抄」で描かれた篠原明里への思いを過去のものとするところで終わる。
この過程が延々と描かれるという一種の女々しさ。
これが非常にリアルで私は好きなのだ。
胸を抉られるような痛々しさと、共感を覚えるみっともなさ。
「秒速5センチメートル」とGoogle検索すると予測候補で「気持ち悪い」と表示されるのは有名だ。
だが、私はそれがたまらなく好きなのだ。人間の弱いところを浴びれる。なかなかできない体験だからだ。
人間は強いものではない。それを認めてこれでもかと女々しさを突きつける。
そんな新海監督の作家性に私は惚れたのだ。
しかし、2016年突如転機は訪れる。
「君の名は。」
この作品は史上空前の大ヒットとなり、新海監督の作家性が揺らいだ転機である。
「君の名は。」はこれまでの監督の作品よりもエンターテイメント性に振り切ったもの。
RADWIMPSの「前々前世」のヒットも重なり、今作は『普段映画を見ない層=ライト層』に監督の名前が知られることとなった。
上から目線なのでライト層という言葉は好きではないですが、わかりやすくするため使います。
「君の名は。」の後、監督が何を思ったのか。
その答えは2018年に分かった。
「天気の子」
前作の大ヒットを受けて、日本アニメ界の未来を担うと期待された新海誠の次回作。
それはまさかの女々しさを残したセカイ系だった。
天使の巫女である陽菜を守るため、世界はどうなってもいいという決断を下した帆高。
私は一瞬で本作に魅了された。
帆高の純粋な思いに惚れ、新海誠の作家性に惚れ尽くしたのだ。
ただ、実は「天気の子」こそが「すずめの戸締まり」につながる新海監督の決意が描かれた作品だと知ったのは、「すずめの戸締まり」を見た後だった。
「天気の子」での決意と「すずめの戸締まり」での覚悟
「天気の子」のクライマックス。
それは、帆高が天気の巫女として消えた陽菜を救い出すため、線路を逆走し、警察と戦い、鳥居をくぐる。
落ちていく空の中、帆高が見たのは雲の上で横たわる陽菜だった。
天気と引き換えに彼女を再び現世に戻すと決意した帆高は陽菜とともに落ちていく。
時は流れ、3年後。
陽菜と引き換えに雨が止まない土地となった東京の惨状を聞き1人歩く帆高。
目の前には空に祈る陽菜が。
帆高は言う。
「僕たちはきっと、大丈夫だ。」
と。
このシーンはさまざまな考察がなされているが、私は新海誠監督の決意がメタ的に描かれたように感じてならない。
新海誠監督=帆高は、「君の名は。」のヒットを受け、ライト層=多数派が望むのは前述した監督の作家性=晴れ間ではないことを知った。
自分のエンターテイメント性=陽菜こそが日本のアニメ界では求められている。
しかし、作家性を捨てることなど並大抵の決意ではできない。
だからこそ「天気の子」が生まれた。
本作では、新海誠監督作品で『運命』の象徴である『線路』を帆高が逆走する。
監督にとっての輝かしい『運命』は自身の作家性が多数派に受け入れられ、自分の望む作品を作り続けること。
それは叶わないと知った。「君の名は。」で。
ならば、自分はどうあるべきなのか。
アニメという文化を絶やさないため、エンターテイメント性をとる。
だからこその帆高の逆走なのだ。
今作は監督の作家性とエンターテイメント性が程よい塩梅で折り込まれた作品である。
「天気の子」で描かれたのは、監督が自身の作家性を捨ててもアニメ業界を引っ張っていくという決意。
多数派の求める作品を生み出し続けてやるという決意である。
そんな決意をしても自分は壊れない。そしてアニメは今後も「大丈夫」と宣言して終わる。
そして、「天気の子」での決意を受けて描かれたのが2022年公開。
「すずめの戸締まり」
本作は驚くほど新海誠の作家性が抑えられた作品である。
最初に述べた女々しさがまったくないのだ。
それもそのはず主人公はすずめという少女。
彼女が扉を閉めていくというアクションロードムービーなのだ。
文句無しに面白かった!!
すべてのシーンにワクワクして、最後の最後まで目が離せなかった。
しかし、それでも感じざるを得なかった。
これが今後の新海誠なのだという覚悟を。
私が劇場で席を立とうとした瞬間、前の席で見にきていた学生たちが話していた。
「めちゃくちゃ面白かった!一番好きかも!」
後ろの席で見にきていた家族連れが話していた。
「すごく良かったね。」
これが全てなのだと思った。
監督は自身の作品をこういった層に届くように作ったのだ。
すると、本作のタイトルの「戸締まり」にも納得がいく。
監督の作家性を納める。
もう今後私の愛した新海誠の作家性が前面に出た作品は作られない。
なぜなら、監督は日本アニメ界を守るため全年齢層に届く作品づくりをするという覚悟を決めているからだ。
私はそんなメッセージを「すずめの戸締まり」から受け取り、尊敬の念をもって感想を残す。
私は新海誠ファンをやめます。
でも、アニメファンとして、輝かしい未来を願う者としてあなたを応援します。