こんにちは。てんすけです。
今回は、ガンダムシリーズでは比較的新しい「機動戦士ガンダムUC」の考察をしたいと思います。
先に言っておきます。
私は、「機動戦士ガンダムUC」は
古参ガンダムオタクとしては大好きです。
しかし、
ガンダム含めたアニメのファンとしてはかなり否定的です。
我ながらめんどくさいですね〜
なぜなら、「機動戦士ガンダムUC」は
良く言えば
古参ファンをガンダムに連れ戻した作品
悪く言えば
ガンダムを再びオタク向けアニメに引き戻してしまった作品
と評価できるからです。
今回はこのことについて書いていきます。
「機動戦士ガンダムUC」見るならNetflixがおすすめ。
機動戦士ガンダムUCとは
ストーリー解説
舞台は宇宙世紀0096年。
「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」で描かれたネオ・ジオンと地球連邦の戦争から3年後の世界。
すべての人がアクシズ・ショックを目撃した後の世界です。
フル・フロンタル率いるネオ・ジオン残党、通称「袖付き」は地球連邦が秘匿し続けた「ラプラスの箱」と呼ばれる最重要機密を手にし、それを利用して地球圏と交渉をしようとしていました。
袖付き首魁フル・フロンタル。シャアの再来と呼ばれる。
正確には「ラプラスの箱」がある場所を示すプログラム、ラプラスプログラムを搭載したMSユニコーンガンダムを手にすることが、「袖付き」の目的です。
その取引が行われるコロニーに住む少年バナージ・リンクス。
彼が本作の主人公です。
彼が学校へ向かう途中に出会った少女オードリー・バーン。
彼女は、「ラプラスの箱」の引き渡しを単独で阻止するために潜入中の身でした。オードリーと運命の出会いを果たしたバナージ。
偶然ではありますがバナージはユニコーンガンダムに搭乗します。
かつてのガンダムパイロットたちと同じく運命に立ち向かうことになります。
果たして「ラプラスの箱」の正体とは一体?
また、オードリーはなぜ引き渡しを阻止しようとしたのか?
バナージは様々な謎を解明するため、後にラプラス事変と呼ばれる地球連邦と袖付きの戦いに巻き込まれていきます。
そして、多くの大人たちと出会い、彼もまた少年から青年へと成長していくのです。
制作の背景
「機動戦士ガンダムUC」の原作者は「機動戦士ガンダム」原作の富野由悠季さんではありません。
「亡国のイージス」「終戦のローレライ」などで有名な作家、福井晴敏さんが「機動戦士ガンダムUC」の原作小説を担当しています。
福井さんは「∀ガンダム」の小説版も担当しており、それがきっかけで「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」から「機動戦士Vガンダム」までのミッシングリンクを描くプロジェクト「UC NEXT100」に携わることになります。
その第1弾として生まれたのが「機動戦士ガンダムUC」です。
福井さんは大のガンダムファン。しかも、富野由悠季ファンです。このような方が描くガンダムが面白くならないわけがない!
しかも「機動戦士ガンダムUC」は氏が一番影響を受けたという「機動戦士ガンダム閃光のハサウェイ」へとつながるストーリーラインを描くもの。気合が入らないわけがありません。
ただし
小説を掲載する「ガンダムエース」の出版社角川書店から、いくつもの制約が氏に課されました。
特に重要なのが
ニュータイプ論を描くこと
これこそが、「機動戦士ガンダムUC」が問題作と言われるようになったすべての原因です。
作中で描かれたニュータイプによって、ガンダムシリーズ全体にどのような影響が現れたのか次の章で述べていきます。
ここから先は「機動戦士ガンダムUC」の重大なネタバレがあります。
やってはいけないこと
「機動戦士ガンダムUC」がやった、最も大きなタブーは
“ニュータイプを神として描いたこと”
なぜこれがやってはいけないことなのか。
2つの視点から解説します。
1つめは、原作者富野由悠季監督の思いから。
2つめは、ガンダムシリーズ全体のテーマから。
富野由悠季監督のニュータイプ論
実は、富野監督の中ではとっくの昔にニュータイプ論は結論付けられています。
それは、「新訳 機動戦士Zガンダム」の制作発表の際。
ニュータイプ論というものを生み出したZガンダムの劇場版を出すなら……
ということで、出した結論です。
結論
“ニュータイプとは家族(隣人)を大切にする人のこと”
こちらでも言及あります。
とてもシンプル。
そもそもガンダムという作品自体が、戦争を舞台装置として使っている以上、テーマとして「人と人とが分かり合う方法」を描いています。
宇宙世紀を舞台とするガンダム作品では、この方法が一貫して「人類がニュータイプに進化すること」でした。
とすると、前述の富野監督の結論には非常に納得がいくと思います。
家族を大切にできる人間は、相手の背景にあるものを理解できる。
そうなれば、人と人とがわかり合うことも可能だ、と。
ニュータイプとは決してオカルトじみた力をもつ人間ではない。
これが富野監督の結論なのです。
ただし、宇宙に適応した人類であり、アニメの中で出てくる概念であるのでアクシズショックに代表するような、本当に人が解決できない危機が起きた時に奇跡を起こす力をもつ可能性がある人類であるとも描かれていることは事実。
この点に関しては、そもそも富野監督自体がニュータイプは「機動戦士ガンダム」作中でアムロの超人的なパイロット能力の裏付けとして出したことが初出であるため、ある程度奇跡の人類の要素ははらんでいないといけないからと理解できます。
さて、この結論を踏まえて「機動戦士ガンダムUC」でニュータイプ論がどのように描かれたのが考えてみましょう。
「機動戦士ガンダムUC」EP7ラストの戦い。
TV版「RE:0096」では第22話。
コロニーレーザーを止めるために、バナージはユニコーンガンダムのサイコフレームの力を限界まで高めてバリアをはります。
このバリア自体は「機動戦士Zガンダム」でも似たものが描かれていました。
そして、無事コロニーレーザーをバナージは止めます。
この時点で人間離れしていますが、この後が問題。
ユニコーンガンダムが指示するかのように手をふると、敵味方問わずMSが自動で武装解除をしました。
そして、福井さんいわくこの時のバナージはサイコフレームと一体化して人間をやめた状態であるとのこと。
つまり、意識だけでいろんな場所に行けるし、何ならアクシズ・ショックも簡単に起こせる状態。
つまり、ニュータイプ能力を高めた結果、人は神にも近しい存在へとなれるということ。
これ、何がだめなのかというと、結局戦争を解決するには神の力が必要だとなってしまうからなんです。
ガンダム作品の魅力は、出てくる登場人物それぞれにドラマがあり、戦争という特殊な状況下でも分かり合う瞬間を描いている部分にあると思います。
そして、そのような状況下でも心を通わせる瞬間を描くことで、人間は争わなくても生きていけるという人間讃歌が作品の根底にあることがわかるのです。
名曲「哀戦士」の歌詞もまさにそうですよね。
ガンダムは人間は愚かであっても、必死に生きることを肯定している作品。
それなのに、ニュータイプが人類からかけ離れた神にも近い存在であると描くと、結局人間が悩んで悩んで解決しようとしている戦争が茶番であるかのように写ってしまうです。
戦争が終わらない。それならニュータイプに頼んで武装解除してもらおう。
このような結論であっていいでしょうか?
私はおかしいと思います。
そして、多くのガンダムシリーズを手掛けた制作陣もこう思っていたことでしょう。
だから、これまでのガンダムシリーズではやらなかったのです。
戦争の解決策として、神のような人智を超えた力に頼ることを。
ガンダムシリーズ全体のテーマから
前述した通り、全ガンダムシリーズに共通することは、戦争を舞台装置として使っている以上、テーマとして「人と人とが分かり合う方法」を描いているという点。
逆説的に、「人と人とが分かり合う」ことがテーマであればその方法は何でも良いのです。
むしろ、その方法をニュータイプに限定しないでほしい!というのが「機動戦士ガンダム」を生み出した富野監督の意思です。
これに成功した代表的なガンダム作品が
これらは宇宙世紀を舞台にしていない作品たち。
故にニュータイプという概念が存在しません。
そのため、「人と人とが分かり合う」ことについて人間がもてる力でがんばるということが共通して描かれています。
詳しくはそれぞれの個別記事を書く予定ですのでそこで解説します。
このような描き方に対して、富野監督はもちろん大絶賛。
「機動戦士ガンダム」で描いたように、富野監督は人間讃歌を旨とした作家性をもっています。
戦争を解決するのは、人間の力であり、神ではない。
このような思いが前提として「機動戦士ガンダム」が作られました。
すなわち、ニュータイプを人間の枠から飛び出すことは、原作者の思いを踏みにじることで、描いてはいけない領域でもあるのです。
また、上の3作品が与えた影響は作品内容だけでなく、ニュータイプとはなんぞやと論争を日夜繰り広げる宇宙世紀ガンダムオタクたちからガンダムを解放したことも大きいです。
宇宙世紀ガンダムオタクからの解放については↓に詳しく書きました。
この3作品があったことで「∀ガンダム」を富野監督が作り、後に生まれるものも含めて、ガンダムをジャンル化することに成功したのです。
つまり、ガンダムが一部のオタクが見るアニメという枠組みから解放されたのは、ニュータイプ論を放棄したから。
裏を返すと、ニュータイプという考察しがいのあるテーマがある限り、オタクアニメという位置づけから逃れられないのです。
ニュータイプという富野監督が手放したくてしょうがなかったものを、再度蒸し返すように描いたこと。
しかも、デウス・エクス・マキナのような位置づけで描いたこと。
これが「機動戦士ガンダムUC」が犯した、最大のタブーなのです。
まとめと実は好き
色々批判的に書きましたが、久しぶりの宇宙世紀のガンダムということで、かつてガンダムが好きだったという人たちを戻したという功績もあります。
また、ストーリーも入り込みやすく、魅力的なキャラクターも多いため初めてガンダムを見る人にも優しい特徴があります。
私は特にリディが好きですね。
さらに、これまで不遇だった「機動戦士ガンダムZZ」の要素と膨らませてメインストーリーに入れたことも良かったです。
あと!!
モビルスーツがかっこいんですよ!!
デルタプラスやバンシイ!
バイアラン・カスタムもしびれました!
と、こんな感じに、私も実は好きです。ユニコーン。
ただし、私はやはり今後もガンダムはカルト的なアニメでなく、だれでも見やすい作品として末永く続いてほしいと思っています。
だからこそ、批判するのです。
再びオタクたちだけがニュータイプについて論議するようなアニメにしてはいけない。
今後もUC NEXTプロジェクトは続きます。
と、同時に今秋、ついに久しぶりの宇宙世紀以外のガンダム作品がアニメシリーズで放送決定しています。
各話感想もやる予定ですし、ファンの新規参入を期待してこちらの方を応援していこうと思っています。